私たちは愛する者を亡くすと、悲しみつつ、
その人に何もできなかったと後悔し、
残されたものとして自責の念をもつことがあるのです。
しかし現代は忙しい時代、その感情を押し隠し、
すぐに職場や学校に復帰し、
元気に振る舞わなくてはならないのです。
本来そのような時、先人達は葬儀や喪に服する時を十分にとって
信頼できる仲間に繰り返し胸の内を物語る
「喪の作業」をすることができました。
震災を覚える祈りの日の「教会週報」載っていた
職場を去る恩師からのメッセージ。
「渡せただけで満足です。」
と表に書かれた生徒からの手紙をあけてみると
大好きな親族を失ったこと、悲しみがあふれて止まらないので
先生に話を聞いてほしかったけれど諸般の事情でそれが叶わず
手紙を書く、という内容だったそうです。
悲しみと悔いが綿々と綴られたあと、
「ああ、なにかお手紙にしたら落ち着いてきました。
勝手に打ち明けてすみません。一方的にですがうちあけさせて下さってありがとうございました。返事とか、いりません。この手紙も捨てて下さい。うちあけたかっただけなんです。ありがとうございました。」
と手紙は終わり、
それを読んでこちらの体もあたたかくなり赦されたように思った、
と師のメッセージには、書かれていました。
喪に服す、というのは
年賀状を出さないことではなく、
受け入れる、
周りはそれに寄り添う、
ただそういう自然なことなのだと、思いました。
ありがとうございます。
近々遊びに伺わせてください!